ダム名 狭山池ダム (さやまいけだむ)
形 式 アース 大和川水系西除川にかかるダム
所 在 大阪府大阪狭山市大字池尻 Yahoo地図
目 的 洪水調節、不特定利水 管理 大阪府
印象(5段階) 眺望(5段階) 観光(5段階) 交通(3段階) 堤 体 積 605,000 m3
☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆ ☆☆☆ 総貯水容量 2,800,000 m3
着工年 1980年 堤 高 18.5 m 有効貯水容量 2,800,000 m3
竣工年 2001年 堤頂長 997.0 m 体 積 能 力 4.628099174
着工→竣工期間 21年 縦横比 53.89 体積有効能力 4.628099174
関連リンク 日本ダム協会 ダム便覧”狭山池ダム”  

上記表は日本ダム協会のホームページにある”ダム便覧”を参考に作成されています。
縦横比=堤頂長/堤高 この数値が大きいほど横長です。1より小さいと、いわゆる縦長ダムです。
体積能力=総貯水容量/堤体積 1m3の堤体材料でどれだけの水を支えているかを表す数値です。
                       この数値が大きいほど、少ない堤体材料で多くの水を支えていることになります。
                       体積有効能力は有効貯水容量で割った数値です。
縦横比、体積能力、体積有効能力は私の個人的な興味で割り出した数値であり、土木の世界で使われているものではありません。
着工→竣工期間は着工、竣工年の単純な引き算しかしていません。着工、竣工ともに年度での数値なので実際の期間とは誤差があります。


≪狭山池ダムのある町の紹介&ダムまでの道≫
 大阪狭山市は大阪府の南東部に位置する都市です。大阪狭山から阪南にかけては、ため池の多い地域であり、古くから水に困窮してきた地域であることがうかがえます。狭山池の面積は大阪狭山市の総面積の10%を占めます。戦前の昭和16年(1941年)に大阪府の「史跡・名勝」第1号に指定されています。
 狭山池へは、南海高野線大阪狭山市駅で下車して徒歩で約10分ほどで堤体(本堤)に着きます。本堤には狭山池博物館があり、また狭山池そのものもかなり広い面積があるためにじっくり一日かけて見学していただきたいダムです。駐車場もダム湖の西側にありますが、台数に限りがあります。


≪狭山池ダム インプレッション≫
 日本最古のダムです。平成の大改修を経て現代的な形に生まれ変わりました。今の狭山池は現代土木によってほぼ生まれ変わったダムですが、隣接する博物館では過去の狭山池について知ることが出来ます。(画像をクリックすると拡大されます)
≪狭山池ダム ポイント≫
【ダムの博物館】
 狭山池について貴重な資料を狭山池博物館で見ることが出来ます。資料館と言われるものとは比較にならない資料の量と質です。ボランティアで案内をして下さる方もいらっしゃるので、心行くまで狭山池について知ることが出来ます。


 ダム本堤は狭山池の北側に面しています。東と西にそれぞれ洪水吐がありますが、西側のほうが規模の大きな洪水吐です。ちなみに計画高水流量配分図は西側の洪水吐で放流された時の流量で計算されています。西側の洪水吐からは西除川に放流され、東側の洪水吐からは東除川に放流されます。取水塔もあり、ここから取水された水はおそらく太満池へと流れていき、浄水場に行くものと思われますが、浄水場のホームページでは狭山池で取水されているとは一言も書いておりませんので、実際のところ詳細は不明です。
 龍神社。狭山池の中にあり、普通の人は行くことは出来ません。鳥居は駐車場のそばにあります。水の神様で、大昔の大干ばつの折に地元の農民たちが祀ったそうです。毎年6月に龍神祭が行われるそうです。

 狭山池博物館の一部にはカフェテリアがあります。地元の授産施設が運営しています。博物館へ入るのにこちらの喫茶店を通り抜けすることも可能です。普通のルートで博物館に入ると、水しぶきがかかって濡れることがあります。私はカメラを持っていたのでこちらのルートを選びました。
 常用洪水吐。奥には非常用洪水吐があります。非常用洪水吐と常用洪水吐の間には放流設備があります。放流された水は非常用洪水吐の減勢工に落とされます。

 非常用洪水吐。越流部だけで200mほどあります。地図上では御母衣ダムの越流部でも100mほどしかなく、狭山池は御母衣ダムの二倍はありそうです。今まで見てきた洪水吐の中で最大級の洪水吐に見えますが、住宅地にダムがあるということで安全率をかなり多めに取っているように思えました。
 洪水吐の写真。左側の水路が常用洪水吐、右側が非常用洪水吐。そして東側にも、もう一つの洪水吐があります。そしてそれらはすべて自由越流式の洪水吐です。

 東除川に流れていく洪水吐です。洪水吐には、さらにトンネルが2門開いています。そのうち右側の一門が角落としでふさがれています。
 東除洪水吐を別の角度から。西除洪水吐と比較しても比べ物にならないくらい小さいです。

 取水塔。ここから取水するのですが、この水がどこへ行くのかがはっきり記された資料が見つけられませんでした。狭山池は歴史的価値に関する資料が膨大なあまり、現在の水使用に関する資料に乏しいようです。過去に油流出事故で狭山池からの取水を止めた経緯があったので、たぶん浄水場へ流れていくものとおもわれます。
 狭山池博物館のエントランスにある水の壁。動かない建築物に動く水が与えられて、静と動の見事な競演です。

 狭山池博物館では堤体の断面が移築展示されています。改築や地震で堤体に現れた変化を目で見て知ることができます。また堤体下に発掘された樋管も展示されています。
 樋管が堤体下に置かれています。スライスされた堤体下には江戸時代の樋管、そしてその下には狭山池が出来た当時の樋管が置かれています。展示物の位置関係がほぼ正確に再現されているとのことですので、樋管の位置は狭山池誕生以来それほど変わっていないようでした。

 慶長の改修で生まれたのが尺八樋と呼ばれる取水設備。現代の言い方で選択取水設備です。水位の高いところから取水できるので比較的水温の高い農業に適した水を取水することができ、また取水操作の開け閉めも行いやすい利点があります。
 大正、昭和初期から使われてきた取水塔です。ハンドルを回して、塔内に水を流し込む私たちが知る普通の取水設備です。当然ながら木製の尺八樋よりも頑丈で、しかも開け閉めもより楽になっています。

 重源坐像。東大寺を再建したことで有名な人物ですが、狭山池を改修したことでも知られています。樋管の改修をするのに石を切り出して石樋を作るのでは改修に時間がかかるために、近隣の古墳から石棺を掘り出して石樋を作りました。石切職人をはじめとする数多くの技術者が重源に協力していたことがうかがえます。
 実際に使われていた石棺。狭山池に使われる以前はかつての豪族の古墳に埋められていたものです。近隣の石材を工面した重源はわずか3ヶ月足らずで工事を終わらせました。

 重源が改修した中樋の部分。改修の碑はここで見つかっています。この碑文によると、狭山池が壊れてしまい、受益地の人々が重源に願い出て、非人まで含めた多くの人々の協力によって3ヶ月足らずで工事を終えたとの記録が残されています。ここでは重源の改修を初回しましたが、この博物館では重源だけでなく他の多くの改修についての記録が展示されています。
 文明の歴史は水とともにあり、水によって人が争い、水を制することで人々が豊かになりました。狭山池というダムは日本のダムの歴史の中でも最も長く、最も多くのいろんな世代の人たちが見てきた経緯があります。時間という軸でダムを見るなら狭山池ほど恵まれたダムは他にはありません。(画像をクリックすると拡大されます)


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